時を超えて語りかける美 ── 骨董・古美術が紡ぐ永遠の価値
一般的に「骨董」や「古美術」と呼ばれるものは、100年以上前に生み出された品々を指すといわれています。日本においては、大正以前に制作されたものがこれに当たります。
このような古の品々の最大の魅力は、全てが職人の手による一点物であるという点にあります。つまり、同じものは二つとして存在せず、唯一無二の個性がそこに宿っています。
一方、現代の多くの工業製品は、機械による大量生産が基本であり、ほぼ同一のものが何百、何万と生み出されています。形状やサイズ、色合いに微妙な差異があれば、それは不良とみなされ廃棄されてしまうため、量産品は均質性が求められます。結果として、万一破損や紛失があっても、お金を出せば同じような品を手軽に手に入れることができるのです。
しかし、骨董・古美術品はそうはいきません。一度壊れ、失われれば、それは永遠に同じものが再生されることなく、世界から消え去ってしまいます。そのため、それらが現在まで受け継がれ、残り続けているという事実そのものが、長い歴史の中で多くの人々に愛され、守られ、選び抜かれてきた証でもあるのです。
想像してみてください。あなたが今日使っている食器や家具、アクセサリーといった日常品が、100年後、さらには1000年後にまで受け継がれている姿を。災害が多く、移り変わりの激しい日本という土地で、そのような長い時間をくぐり抜けて生き残る品があるとすれば、それにはきっと確固たる理由があるのでしょう。
骨董・古美術品に触れることは、時間を超えた物語に耳を傾け、その美と価値を味わうことに他なりません。そこには、過ぎ去りし時代を経てきた重みと、人々が注いできた深い想いが、今なお澄み渡る声となって私たちに語りかけてくれるのです。
時の襞に守られた美 ── 箱と仕立てが紡ぐ骨董・古美術の世界
日本人は古来より、物を大切に扱う文化を育んできました。その証といえるのが、骨董・古美術品が大切に木箱へ納められ、時を超えて受け継がれていることです。箱には中に何が収められているのか、品名や数量が記され、時には購入年号まで細やかに記録されます。さらに大きな蔵を持つ家では「蔵番」と呼ばれる管理の手法があり、箱一つひとつに番号を付し、帳面へ記録を残すことで、長い年月にわたって厳密な管理が行われてきました。
また、より一層丁重に扱われた品は、幾重にも重ねられた箱に収められます。まるでマトリョーシカ人形のようにサイズ違いの箱が入れ子状になり、最後には「仕覆(しふく)」と呼ばれる布製の袋へ包まれ、完全に守り抜かれます。仕覆の布地や木箱に使われる材、箱を結ぶ紐の素材、箱書きに至るまで、あらゆる要素が工夫され、それらの総合的な組み合わせを「仕立て」と呼びます。この仕立てを専門に手がける「仕立師」という職業が存在するほど、その世界は奥深いものなのです。
ゆえに、骨董・古美術商たちは、箱や仕立てをひと目見れば、その中に収まる品の格や特質をおおよそ見抜くことができます。こうした長い時の中で紡がれた保護と伝承の文化こそが、骨董・古美術品の価値を支えているのです。
さらに、100年、1000年という歳月を経ることで生まれる独特の風合いは、いくらお金を積んでも即座に得られるものではありません。出来た当初とは異なる深みや趣が、時の流れによって品々に刻まれるのです。
そしてもう一つ、骨董・古美術の醍醐味として、いくら財力があっても望む品が必ず手に入るとは限りません。現代品なら資金さえあれば大抵のものは手に入りますが、骨董・古美術はまったく別の世界。市場に流通しないものは待つほかなく、その所有者が手放さなければ、どれほど財力を誇ろうと入手は叶いません。仮に願い通りの品が入荷したとしても、その風合いや状態は自分が想い描いていたものと微妙に異なるかもしれません。
こうして、時代を超え、幾重もの手に渡りながら厳重に守られ、唯一無二の存在として現代に息づく骨董・古美術品。その存在は、私たちに「かつてそこに生きた人々の想い」と「時を経て生まれる美」を同時に感じさせてくれるのです。
時を超えて結ばれる縁 ── 骨董・古美術品が紡ぐ不思議な巡り合わせ
先にも述べたように、骨董・古美術品はすべてが手作りであり、長い年月を経て生まれる独特の風合いは、一点一点がまったく異なります。
東京店 店主: 西川 英樹
私たち古美術商は、品物が売れることを「お客様のもとへ嫁いでいく」と表現することがあります。それは、商品が前の持ち主を後にし、新たな方の手元でまた愛され、大切にされながら時を刻んでいく様子を、あたかも人間の縁組になぞらえているからです。
この商いを続けていると、不思議な瞬間に何度も出会います。品物がまるで新たな持ち主を待ち続けていたかのような巡り合わせです。入荷したばかりの商品を、長年ずっと探し求めていた方が偶然店を訪れ、まさにその日に手に入れることもあれば、通りすがりにふらりと立ち寄った、骨董や古美術に普段は縁のない方が、長く売れ残っていた品に一目惚れして購入されるといったことも、決して珍しくはありません。
そこには、一種の運命めいたものを感じます。人と物が引き合い、数奇な歴史を刻んできた骨董・古美術品。幾百年と受け継がれ、今私たちの手もとに留まる理由は、この不思議な絆にあるのではないかと思えてくるのです。
時代を超えて輝く美 ── 骨董・古美術が映し出す日本の精神
現代社会では、価格やブランド名といったわかりやすい基準が人々の価値観を大きく左右しているように感じられます。値段が高いから良い物、名門ブランドだから優れた品――このような価値づけの中では、安価な品は惜しみなく使い捨てられ、壊れても同じ物を買い直せば済む、といった消費行動が当たり前になりつつあります。
一方、骨董・古美術品には、誰がいつ、どのように生み出したかも不確かなものが少なくありません。真贋すらはっきりせず、当然ながら原価も定められない。それでもなお、同じ価値観を共有する者同士が、品の存在意義や美意識に基づいて価格や価値を「自ら見出し、付けていく」独特の世界が広がっています。これは、明確な情報と大量生産を前提とする現代の価値観とはまったく異なる在り方といえるでしょう。
情報過多な社会では、与えられたデータに振り回され、真実や本当の価値を自ら紡ぎ出すことは容易ではありません。そんな中、真実を探り、価値を主体的に決める骨董・古美術の世界には、私たちが失いつつある「自らの目で見る力」と「独自の思想」が息づいているように思えます。歴史上の多くの人物、そして皇室までもが、こうした骨董・古美術の魅力に惹かれ、有名なコレクションを築いてきました。その象徴が、正倉院や三の丸尚蔵館に収蔵された稀代の美術品群です。
さらに今日では、この価値観は外国へも広がり、海外のコレクターたちが日本の骨董・古美術品を求めて海を渡り、収集しています。異国の人々は、日本人特有の洗練されたデザインや高い技術、そして長年の保管による良好な保存状態に、驚嘆の声を上げます。それは、日本が世界に誇り得る文化的魂が、形あるものとして残されている証でもあります。
グローバルな舞台で日本の存在感が揺らぎつつある今だからこそ、私たちは一度立ち止まり、日本の骨董・古美術を通じて自国の本質的な素晴らしさに目を向けるべきかもしれません。この類まれな歴史と美意識の結晶は、私たちが世界に示し得る真の誇りであり、いつの時代も変わらぬ輝きをもって語りかけてくれるのです。